こんにちは。TADです。
会社や同僚の評価基準に疑問を持っている方、いませんか?
みんな「はい」か「YES」のいずれかの選択をして、迎合して右を向く。
僕は、それでは現状を打破し自分の夢には至らないと思ってました。
今回は、一人で勉強する時間は苦しかったけれど、僕が試験勉強に向けて意識が変わった時の記事になっております。
良かったら読んでみて下さい。
30秒だけ、僕の自己紹介です。
名前:TAD
肩書:中小企業診断士、宅地建物取引士、創業・新事業コンサルタント。
この時代に、大学に行くことがステータスというど田舎から大学を目指すも、偏差値ギリ40程度であえなく現役撃沈。
2浪後大学入学するが、いわゆるFラン。
卒業後に田舎に帰って国家資格でも取ろうと模索するが、周りには変人扱いされる。
「受かる訳ねーだろ!」感満載の職場にて、30代に突入し仕事の丸投げに合い、鬼多忙となる。
「社畜決定。俺の人生もはやこれまで」と絶望の淵で、ある勉強法に目覚め、宅地建物取引主任者⇒中小企業診断士と合格する。
地方は超不利と感じつつも、ど田舎からでも難関資格の取得は、無理のない努力でも十分可能ということに気づく。
また、中小企業診断士としてそのリアルガチな実態を発信していく。
学校時代は、「内職」をしていた。
僕は高校時代、いわゆる「内職」ばかりしていた。
理由は大学受験に必要な科目だけを勉強するため。
内職出来ないと、逆に授業時間に、不安になって、そわそわしていた。
だけど、僕の周りは、学校の成績を第一優先にしていた。
僕には理解できなかった。
学校はあと1年で終わる。学校の成績や順番に何の意味があるのか理解できなかった。
社会人になってもそうだ。
会社内での狭い世界での評価基準に左右される方々。
僕には理解できない。
きっと、アナザーワールドは広いんだ。
僕は、今でも信じて疑わない。
自分自身の行動基準は案外正しい
結局、大学受験に関しては、僕の考え方が正しかった。
正しく言うと、僕の進路に関しては、そうだった。
日本人は、どうしても自分が所属しているコミュニティの評価者の評価を重んじるよう教育されているのだと思う。
つまは、僕たちは思考停止に陥っていると思う。
僕は、疑ってみた。
だから、中小企業診断士試験を初めとする資格試験勉強中は、皆と違う行動ばかりした。
- 本を読めないから酒は飲まないようにした。
- 時間がもったいないから、会社の飲み会は断った。
- 昼飯は一人で食べて勉強した。
決して、同僚や職場の和を乱すためじゃない。
中小企業診断士を目指している人は多かったけど、誰も受からなかったから、
思考を変えないとダメなんだろうな。
と思った。
僕は合格した。
やっぱり、自分自身の行動基準は正しかったのだ。
ただ1点。資格試験に合格するということに関してだけど。
そして、資格は必要無いという人達
それは、そうでしょ。
資格がすべてじゃないし、ビジネスにおいてはマストのものじゃない。
社長さん達は、資格なんて必要ないしね。
そんなのあたりまえ体操ですよ(笑)
でもね、資格が必要な会社や業界のサラリーマンでいるからには必要でしょ。
それが業務として必要とされているのだから。
それをね、「中小企業診断士じゃなくてもコンサルできるから」なんていう方々は、かわいそうとしか言うしかない。
そんなことお前より分かってんだよ。
勘違いしないで欲しい。別に「合格したやつが偉い」という話じゃない。
別に、資格じゃ無くてもいいんだ。
努力しないで行動できないのが、「かわいそう」ということ。
結局、そういう輩は政治力とかなんとかいって、「ごますり」という政治もどきに走るんだよね。
自分のチャレンジに誇りを持とう
例えば、中小企業診断士になるためには、1,000時間~1,500時間の平均勉強時間と言われている。
宅建なら500時間です。
両方の資格に共通して、年間1時間以上(60分以上)の学習が必要とされるんです。
日本人の平均勉強時間は約6分と言われてるんだよね。
とすると、平均と比べて約10倍の努力ですよ。
社会人になると、どうしても勉強以外に時間を取られ、
毎日わずか1時間でも勉強時間を確保するのはしんどいんだ。
だから、チャレンジしているだけでも、とても誇らしいことだと思うんだよね。
勉強だけに時間を費やすことが出来ない、社会は「複雑系」ですから。
突破せよ
最終的に、合格という壁を突破出来るかどうかは、自分の信念次第。
合格するために、いかに工夫するか。
合格するために、いかに貫くか。
合格するために、いかに耐えるか。
考えたらきりが無い。
でも…資格試験への自分の選択やチャレンジは正しい。
そう信じよう。
僕の周りでは、誰もチャレンジしなかった。
だから、不安だった。
だけど、自分を信じることで突破できた。
夢へのチャレンジ精神は正しい。
人生を終えるときも、きっと僕はそう思うに違いない。